Chiesa Sant'Antonio Abate
サント・アントニオ・アバーテ教会は、旧市街と新市街の境目にあり、ファラトとベイチという名の古い塔を持ち、さらに古代アラブの壁要塞の9つのウルビッシュゲートの1つ、"Bab-al bahr"アラブ語で海の門と呼ばれており、ノルマン支配統治時代には、"ポルタ・パティテッリ"と呼ばれていました。
この建物の建築がはじまったのはおそらく1220年ごろで、サン・カタルドの教会からの教区の特権がうつされた時と記録されています。教会はマンフレディ・キアラモンテ長老によって建築のための資金を提供され、もともと市民のために1302年から1313年の間に建てられました。教会上部には塔が作られ、そこには、パレルモ教区の中心的な役割を担う選ばれた教会である印として鐘楼が配置されました。
ルネッサンス時代、1516年から1536年の間に、教会全体は建築家アントニオ・ベルガードによって再建築され、この際、ギリシャ様式の骨組みとノルマン様式はそのまま継続されましたが、尖塔部分にとどくまで拡張されました。その後、1823年に発生した地震は、教会に深刻な被害をもたらし、特に礼拝堂部分と聖壇部分は破壊され、1833年まで教会は閉鎖されていました。その後、1884年にローマ通りに面した登り階段部分があらたに作られました。
アントニーノ・ガジーニ(アントネッロ・ガジーニの息子、大理石職人)は、1551年から1561年の間に「サンティッシモ・サクラメント」のイコンを完成させました。
今日、礼拝堂の中央部に配置されていたと思われるイコンは残念ながら解体されました。そこにはかつて聖杯と聖体(円形のかたちをした部分)が描かれ、小礼拝の中心部は天使によって囲まれ、天蓋には精霊の象徴である白い鳩が描かれています。さらに聖書で伝わるマタイの福音書の一節、キリストの受難(via crucis)が描かれています。この教会はもともと聖ペテロとパウロ(現在は外に置かれている)の肖像に囲まれ、彼の人生のなかで2つの重要なシーンをあらわした2つの聖アンソニー彫像がそのうえに配置されていました。懺悔の旅(粗末な着物で身を包み、砂漠で懺悔をした時代)と修道院時代のものです。(今日は教会の事務所側の外にどちらも置かれています)。
Traduction by: Naoko Urata